2.「若大将シリーズ」の誕生から完結まで

(文中敬称略)

東宝映画「若大将シリーズ」の誕生から完結までの歴史



1.誕生

'60年5月、慶応大学を卒業した池端直亮は、東宝に入った。両親は日本を代表する映画俳優上原 謙と女優小桜葉子。母方の曾祖父に岩倉具視がいた。
スポーツ万能で音楽的才覚にも溢れた長身の二枚目は、東宝の期待の星として、藤本真澄プロデュサーより売り出されることになった。

祖母の映画俳優の江間光括の姓名判断により付けられた芸名が、『加山雄三』である。
砧撮影所で開催された全国映画館主大会で、柴山撮影所長が『加山雄三の加は加賀百万石の加、山は富士山の山、雄は英雄の雄、そして三は小林一三の三です』と発表。
60年代を驀進する男のキャッチコピーで、マスコミに大々的に宣伝されることになった。
映画デビューは、'60年『男対男』では脇役、続き同年『独立愚連隊西へ』、'61年『暗黒外の弾痕』では準主役に登用された。
その後、藤本真澄プロデュサーの、同年『銀座の恋人たち』を経て、加山雄三をメインとしたオリジナル作品の若旦那ものを企画。
ニックネームは、若旦那では古臭いということから、東京新聞のコラムに出ていた作家・黒岩重吾の株屋時代の愛称『北浜の若大将』からとり『銀座の若大将』としたが、加山雄三が大学を卒業したばかりということで、タイトルは『大学の若大将』と決定した。

最初の打ち合わせで加山は、自分の生い立ちや学生時代のエピソードを話した。
1日5度はメシを食わないと腹が減って仕方がないこと。自分で船を造ったこと。おばあちゃん子であったことなどが若大将の性格付けのヒントとなっている。
そして、藤本プロデュサーから若大将には母親がいなくて、おばあちゃんがいることにしようとなった。
また、キャスティングの話では、若大将(加山雄三)、父親(有島一郎)、妹(中真千子)、祖母(飯田蝶子)、友人(江原達怡)が決まった。
更に、藤本プロデュサーは若大将に対する敵役にもニックネームが必要ということで、青大将と提案がありその場で俳優座の性格俳優で、チンピラや殺し屋など特異な役が多かった田中邦衛に即決した。
『大学の若大将』の監督は娯楽映画のベテラン、杉江敏男に決定し'61年5月にクランクインし約1ヶ月の撮影を経て完成した。

2.変遷

『大学の若大将』('61年7月8日封切)でシリーズの基本路線が決まった。
京南大学水泳部のエース田沼雄一が、BGの中里澄子と知り合い、クラスメイトで金持ちの御曹司の青大将が横恋慕。若大将は使い込みと喧嘩がばれ、父親から勘当をいい渡されて家を出る。
モテモテの若大将に嫉妬した澄子は雄一と仲違い。試合を前に落ち込む若大将だが誤解が解け、澄子が声援に駆け付ける。そして勇気100倍、スポーツに恋に勝利する。
毎回、スポーツやヒロインの設定が変わり、回を重ねるごとに青大将が憎めない三枚目となる。等身大の田沼雄一を演じた加山雄三は好感度がアップしてこの映画の観客動員は387万人の大ヒットとなった。

第1作が大ヒットし、すぐさま第2作『銀座の若大将』('62年2月10日封切)の製作がスタートする。
スポーツはボクシングと加山雄三が大学時代に2度も参加した程の腕前をスクリーンに生かすべく、スキーも登場する。
興行界がもっとも冷え込むといわれた2月に封切られたが、そんなジンクスを吹き飛ばすような観客動員は260万人のヒットを記録した。

第3作『日本一の若大将』('62年7月14日封切)の製作がスタートする。監督には新鋭の福田 純を起用。テンポの良い展開はシリーズ屈指の出来栄えとなった。
この映画では若大将の就職が決まり、妹の照子と学友の江口の結婚を匂わせるセリフなどもあり、当初は本作でシリーズ完結の予定だった。観客動員数は347万人。

'63年、東宝は海外進出に力を入れており、パン・アメリカン航空とのタイアップによりハワイ・ロケ作品の『ハワイの若大将』('63年8月11日封切)の製作が開始された。
本作から加山雄三(弾 厚作)のオリジナル楽曲が登場している。
'62年の秋撮影所で行われた砧まつりに加山雄三が二瓶正也らの俳優仲間とザ・ランチャーズというバンドを結成して参加。オリジナル楽曲を歌ったことから藤本真澄プロデュサー、渡辺プロの渡辺美佐の目にとまり、映画に挿入されることになる。その後加山雄三の歌はシリーズの重要なファクターになる。
'64年は加山雄三は黒澤 明監督の『赤ひげ』に専念するため若大将シリーズの製作は行われなかった。

第4作『海の若大将』('65年8月8日封切)の製作がスタートする。監督は古澤憲吾。
本作で「恋は紅いバラ」と「君が好きだから」のヒット曲が生まれ、東芝音楽工業からリリースされ30万枚を突破した。

第5作は『エレキの若大将』('65年12月19日封切)監督は以後シリーズのメインとなる岩内克己。
俳優仲間とバンド活動をしていた加山雄三のエピソードや脚本を執筆していた旅館の息子がエレキに熱中していたことなどがストーリーに取り入れられ本格的な音楽映画となっている。 この作で、300万枚を超すミリオン・セラーとなった「君といつまでも」が登場する。
映画の内容も父親の借金を「君といつまでも」がレコードになり借金を返済し、倒産寸前の田能久を救うというプロットが、そのまま加山雄三の人生と重なる。

第6作は本格的なヨーロッパ・ロケを敢行した『アルプスの若大将』('66年5月28日封切)の製作が始まる。
スイスのアルプスの白銀でシュプールを描く若大将の勇姿、「君といつまでも」や「夕陽は赤く」などのオリジナル楽曲に観客は熱狂し、東宝の興行成績を塗り替えるほどの大ヒット作となった。

第7作は加山雄三のブームでつくられた『歌う若大将』('66年9月10日封切)であった。
日劇で行われた加山雄三ショーのライブ映画というのは当時前代未聞のことであった。

第8作は、お正月映画として『レッツゴ!若大将』('67年1月1日封切)の製作が始まる。
メキシコ五輪に向けて盛り上がりを見せていたサッカーが取り上げられ、香港、マカオで撮影が行われた。

第9作は、東宝35周年作『南太平洋の若大将』('67年7月1日封切)の製作が始まる。
加山雄三の要望で南の楽園タヒチで撮影を行う。この映画では挿入歌だけではなく音楽監督として弾 厚作が担当している。

年末には、第10作の『ゴー!ゴー!若大将』('67年12月31日封切)の製作が始まる。
多忙を極める加山雄三のスケジュールのため国内のみの撮影で、シリーズのスケール・ダウンを思わせた映画となった。

'68年は加山雄三も田中邦衛も実年齢が30代に突入し、いささか学生服が辛くなってきた。
しかも、実際のキャンパスは学生運動で、若大将のように優等生にリアリティがなくなってきた。
そんな中で第11作は、『リオの若大将』('68年7月13日封切)の製作が始まる。
本作は若大将シリーズ最終作として制作された。若大将代償の卒業式がこの中で執り行われた
しかし、『リオの若大将』は興行がヒットし、若大将シリーズの続行が決まった。

第12作からは、社会人編として『フレッシュマン若大将』('69年1月1日封切)がスタートする。
親友の江口と妹の照子が結婚式を挙げ、若大将は日東自動車に就職。
モータリ・ゼーション全盛の60年代末若大将は自動車をモーレツに売るビジネス・マンとしてスクリーンで活躍する。
監督は、福田 純。ヒロインも清純派アイドルの酒井和歌子にバトン・タッチされた。

第13作は、『ニュージーランドの若大将』('69年7月12日封切)は、前作の続編として作られた。
若大将がオーストラリアに2年間駐在していたという設定は、雄一を加山雄三の実年齢に近づけるための軌道修正でもあった。
社会人編の楽しみの一つに、父親の久太郎と若大将の心のふれあいが社会人編から始まる。

3.終焉と復活

'69年は万国博に沸いた年でもある。
第14作の『ブラボー!若大将』('70年1月1日封切)で、'69年がスタートする。
ここでの田沼雄一は、スポーツス万能の若大将ではなかった。実業団テニスには辛勝するものの、恋人にはふられ、会社の上司とは衝突して失業する。
本作からは二代目若大将を生み出すべく、ザ・ランチャーズの大矢 茂を登用し登場させている。

第15作の『俺の空だぜ!若大将』('70年8月14日封切)は、加山雄三から大矢 茂へのバトン・タッチが試みられている。
監督は小谷承靖。企画の段階では、若大将は日本晴れとなっていた作品でもある。

第16作は『若大将対青大将』('71年1月9日封切)は加山雄三の最終作で、同時に大矢 茂の新若大将シリーズの第一作であった。

70年代前半は、若大将が駆け抜けた高度成長期の60年代とは正反対の暗いムードに包まれていた。
連合赤軍事件、オイル・ショックなど若者が青春を謳歌するという状況ではなかった。
だが、突如として若大将ブームが起こる。
'75年の夏、テアトル池袋で行われた若大将シリーズのオール・ナイト上映は、大学生を中心に大ブームを呼び、上映中にスクリーンに合わせて合唱が起き、劇場の椅子が壊されるほどの熱気に包まれた。

'76年には、東宝は『若大将まつり』として若大将シリーズ3本立て、ニュー・プリント上映を全国で公開した。
加山雄三も久々にシング・レコードをリリースするなど、若大将人気は完全復活した。

藤本真澄は再び、若大将シリーズの製作を試みる。
三代目若大将として草刈正雄で、第1作『がんばれ若大将』('75年7月12日封切)がスタートする。
三代目若大将はシラケ世代の代表として健闘したが、第2作の『激突!若大将』('76年5月29日封切)で打ち止めとなった。

加山雄三は芸能生活20周年の、'81年に久々に『帰ってきた若大将』('81年2月11日封切)を本名でプロデュースする。
田沼雄一の変わらぬ笑顔、すきやき屋田能久との再会は若大将世代のファンへの何よりものプレゼントであった。

4.若大将シリーズのレギュラー陣

青大将(田中邦衛)
青大将の本名は石山新次郎但し『ブラボー!若大将』では石山丹次郎。
『銀座の若大将』までは若大将に張り合う敵役で本当のワルの匂いがしたが、『日本一の若大将』からは憎めないキャラクターに変わっていく。
若大将も悪友のために人肌脱いで、その揚げ句、父親から勘当されたりする。

澄子(星 由里子)
『リオの若大将』までのマドンナ役。
初期3作までは中里澄子だが、職業や名字は毎回異なる。職業を持つ女性として登場し、キャンディー・ガールやお針子、海外勤務のスチュワーデスなどのキャリア・ウーマンを演じる。
性格は、ハッキリしていて田沼雄一が他の女性と親しくしていると青大将と仲良くして見せ付ける。性格はキツイ女性である。

節子(酒井和歌子)
『フレッシュマン若大将』からのマドンナ役。
職業は、スチュワーデスなど。
酒井和歌子になってから私生活の面が描かれ『フレッシュマン若大将』では義兄の自動車修理工場に住んでいるシーンがあり、『俺の空だぜ!若大将『では銭湯の梅の湯の番台でも登場し生活感のあるマドンナを演じた。

田沼りき(飯田蝶子)
明治生まれのハイカラで、若い時は『麻布小町』と呼ばれた、おりきちゃんは田沼雄一の最大の理解者。
若大将シリーズ最後の出演となった『俺の空だぜ!若大将』では、ゴルフにこっている。
『帰ってきた若大将』では7回忌という設定で製作スタッフの心遣いが感じられる。

田沼久太郎(有島一郎)
大正生まれで、商業学校出の父親。
『日本一の若大将』では田能久の看板娘に惚れて婿入りした板前見習いという設定であったが以降では、りきの一人息子となっている。
男やもめなので美しい女性には目がない。周囲をひやひやさせ、老いらくの恋に批判的な家族に対して、雄一はいつも温かく父親の恋を見守るが、結局は失恋してしまう。

田沼照子(中真千子)
洋裁学校に通いながら店の手伝いをしている田能久の看板娘。
店のお金を使い込んでは兄の雄一のせいにしたりするチャッカリ娘。
江口と結婚後は若女将として、店を切り盛りする。

江口 敏(江原達怡)
若大将所属部の敏腕マネージャーを努めている。『大学の若大将』では多胡という名字である。
雄一の娘照子に惚れて愛を育み『フレッシュマン若大将』でようやく結婚し、田能久の婿入りし跡継ぎになる。
『ハワイの若大将』だけは二瓶正也が演じている。




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